P君のお部屋

15622

なぜ古代天皇は100歳を超えるのか - p君

2022/07/29 (Fri) 17:59:20

出雲や北部九州から相次いで硯(すずり)の破片が発見され、
弥生時代にはすでに文字があった可能性が高まってきました。
文字があったのなら王統の伝達は可能なわけで、
7世紀の朝廷はそれまでの王のおおよその実年を把握しており、
後漢書東夷伝のAD107年の倭国王師升(Shuai sheng )がスサノオだと分っていたでしょう。

白村江の敗戦ショックが癒えない時代、
かつてヤマト民族の始祖たるスサノオまでが生口160人を捧げて朝貢し、
後漢・安帝に謁見したいと土下座した事実は、
白村江敗戦という傷口に塩を塗られるように惨めであり、
自尊心がズタズタであったでしょう。

だから、7世紀の朝廷は記紀編纂に際し、古代日本が中華の属国だったというぶざまな歴史を、
時代を大きくずらす事でごまかしました。

また記紀編纂者たちはスサノオから5世代後の神武が卑弥呼の時代になることも分ってたでしょう。
だから記紀において神武東征をやたらクローズアップし、まるで男王国であったかのような脚色をして、
卑弥呼(Bei mei hu)、比咩后(Bi mie hou)、比売后〈Bi; mai hou〉、
つまりヒメ(蹈鞴五十鈴)后の記述を最小限にとどめました。

そして神武天皇即位をBC660年という途方もなく遠い過去に葬り去りました。
神武以降の天皇もそれに合わせました。

これが古代の天皇が100歳を超える日本の歴史の真相でしょう。

Re: なぜ古代天皇は100歳を超えるのか - p君

2022/07/29 (Fri) 18:05:42

那珂通世の紀年論

(wiki)

古い時代の天皇の寿命が異常に長いことから、『日本書紀』の年次は古くから疑問視されてきた。
明治時代に那珂通世が、神武天皇の即位を紀元前660年に当たる辛酉(かのととり、しんゆう)の年を起点として紀年を立てているのは、
中国の讖緯(陰陽五行説にもとづく予言・占い)に基づくという説を提唱した。
三善清行による「革命勘文」[7]で引用された『易緯』での鄭玄の注「天道不遠 三五而反 六甲爲一元 四六二六交相乗 七元有三變 三七相乗 廿一元爲一蔀 合千三百廿年」から一元60年、二十一元1260年を一蔀とし、そのはじめの辛酉の年に王朝交代という革命が起こるとするいわゆる緯書での辛酉革命の思想[8]によるという。
この思想で考えると斑鳩の地に都を置いた推古天皇9年(601年)の辛酉の年より二十一元遡った辛酉の年を第一蔀のはじめの年とし、
日本の紀元を第一の革命と想定して、神武の即位をこの年に当てたとされる。
この那珂による紀年論は、定説となっている[9][10]。

詳細は「紀年論」を参照(補注:160219現在作成中となっている段階)
日本書紀の紀年がどのように構成されているか明らかにしようとする試みが紀年論で、様々な説がある[11][12]。

「推古天皇9年(601年)の辛酉の年より二十一元遡った辛酉の年を第一蔀のはじめの年とし、日本の紀元を第一の革命と想定して、神武の即位をこの年に当てたとされる。
この那珂による紀年論は、定説となっている」


問題は、なぜそうしたかである。
なぜ普通に神武の実年、実在年を日本書紀に書けなかったかである。

神武の5世代前がスサノオだからである。

スサノオ=帥升(Shuai sheng )

日本の古代王で渡海した痕跡があるのはスサノオだけ。
スサノオは渡海し、後漢皇帝・安帝への謁見要請、つまり土下座をしてきたのである。

こんな屈辱的な史実を国史には書けない、未来永劫ごまかすしかない。
ごまかすには時代を大きくずらすしかなかった。

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