P君のお部屋
高天原にある卑弥呼の墓 - p君
2022/07/23 (Sat) 21:51:11
魏志倭人伝に書かれた卑弥呼の墓が高天原にあった。
高天原最有力地・奈良県御所市高天の日本最古の神社・高天彦神社の境内に、
径百余歩(約150m)の塚があり、魏志倭人伝の記述通り奴婢が埋葬されている。
埋葬された奴婢とは土蜘蛛である。
(画像)
卑弥呼(Bei mei hu)とは比咩后(Bi mie hou)、比売后〈Bi mai hou〉、つまりヒメ后である。
⑩崇神(310年頃 318年没)
⑨開化
⑧孝元
⑦孝霊
トヨ津媛 ⑥孝安 ⑤孝昭
トヨ津媛 (250年頃) ④懿徳
ヒメ(踏鞴五十鈴)后 ③安寧
ヒメ(踏鞴 五十鈴)后 ②綏靖
ヒメ(踏鞴五十鈴)后 (200年頃) ①神武
ヒメ(踏鞴五十鈴)后もトヨ津媛も鴨族。
鴨の語源はカミ。
鴨族の聖地が高天原。
ヒメ(踏鞴五十鈴)后もトヨ津媛も高天原の神々であった。
Re: 高天原にある卑弥呼の墓 - p君
2022/11/12 (Sat) 20:21:02
訂正です、中国は緑色も青と表現していたようで、魏志倭人伝にも青玉と書かれてて緑という記述はないようです。
ただし枚は、
※漢字ペディア【枚】
紙・板など、薄くて平たいものを数える語。ひら。
だから通常の丸っこい翡翠の勾玉よりも、
平べったいこのガラスの勾玉の方が「青大句珠二枚」の可能性が高いのではないかと考えます。
Re: 高天原にある卑弥呼の墓 - 橘
2022/11/06 (Sun) 23:56:25
貢白珠五千孔、青大句珠二枚、
で切るのですか。失礼しました。
Re: 高天原にある卑弥呼の墓 - p君
2022/11/06 (Sun) 19:43:47
>貢白珠五千、孔青大句珠二枚
私は「貢白珠五千孔 青大句珠二枚」だと思います。
あな
【穴・孔】
1.
物の面にあいた、または掘って作ったくぼみ(=穴)、または向こうまで突き抜けたトンネル状の所(=孔)。
「岩―」
2.
あな⑴に似た所のあるもの。
こう
〖孔〗 コウ ク・あな
1.
突き抜けた穴。ほらあな。物の表面に口のあいたところ。
「孔穴・孔版・眼孔・瞳孔(どうこう)・鼻孔・気孔・穿孔(せんこう)・鑽孔(さんこう)・噴気孔」
2.
度合がきつい。はなはだしい。はなはだ。
「孔壬(こうじん)」
穴の開いた白い管玉(くだたま)が五千、青い大きな句珠(まがたま)が二枚ということではないでしょうか。
度合いがきつい、はなはだしい青という意味であっても、このガラスの勾玉の青さはそれを説明してるのではないかと思います。
青大句珠を翡翠の勾玉という説がある様ですが、翡翠は青いというより緑色ですね。
信号のように緑を青と例える場合もあるのかもしれませんが、私は、西谷3号墳墓の青いガラス勾玉が青大句珠ではないかと思います。
Re: 高天原にある卑弥呼の墓 - 橘
2022/11/05 (Sat) 22:18:25
貢白珠五千、孔青大句珠二枚、
孔は、深いの意では。深い青。
Re: 高天原にある卑弥呼の墓 - p君
2022/11/05 (Sat) 20:02:53
宗女壹與 年十三為王 國中遂定 政等以檄告喩壹與 壹與遣倭大夫率善中郎將掖邪狗等二十人送政等還 因詣臺 獻上男女生口三十人 貢白珠五千孔 青大句珠二枚 異文雜錦二十匹
「青大句珠二枚」
画像は出雲の西谷3号墳墓から見つかったコバルトブルーの鮮やかなガラスの勾玉です。
「青大句珠二枚」ってこれと同型のものではなかったのでしょうか。
私は卑弥呼も壹與(トヨ)も畿内の古代から高天原と呼ばれた金剛山の麓・葛城地域にいた出雲系の女性とみています。
大和朝廷の発祥地です。
この鮮やかな勾玉が、卑弥呼や壹與(トヨ)と同じ出雲系の神宝であったのなら、壹與が中国に貢いだ青大句珠二枚と同型の可能性が高いのではないかと思ってます。
また少し違和感のあった二枚の枚という記述ですが、普通の勾玉なら厚みがあるので二枚と呼べないのではないか、でもこのガラスの勾玉ならまさに2枚という表現に一致するのではないかと思います。
Re: 高天原にある卑弥呼の墓 - p君
2022/10/22 (Sat) 19:24:51
滑安房守さん
要は考古学的にも崇神天皇が4世紀初頭となりつつありますので、その数十年前の「トヨ」または「イヨ」という最高位の女性を見つけたらいいのだと思われます。
年齢的に考えて、その3世代前に卑弥呼がいるはずです。
卑弥呼の発音の問題もそれに付随してくる事柄だと思われます。
Re: 高天原にある卑弥呼の墓 - 滑安房守
2022/10/01 (Sat) 09:32:21
P君さん
>卑弥呼(Bei mei hu)とは比咩后(Bi mie hou)、比売后〈Bi mai hou〉
>
>この発音はピンインですが、古代もこれに近いであろうという推定だけで卑弥呼をヒメ(踏鞴五十鈴)后と言ってるのではなく、
>彼女の住んだ場所に大量の奴婢埋葬痕跡と径百余歩の楕円墳がある事、
>また。ちょうど彼女の3世代後にトヨ津媛がいることは、
>高齢で亡くなった卑弥呼の死後に男王が立ち、その後に13歳の台与が立った世代差を説明できますし、
>また東大寺山古墳の中平銘鉄刀の和邇氏の祖がトヨ津媛にもなる事は、
>卑弥呼がもらった五尺刀の一口が中平銘鉄刀である証明にもなると思われますし、
>関東千葉に突然現れる前方後円墳は、卑弥呼の死後に立った男王が先代旧事本紀ではタケミカヅチにあたり、そのタケミカヅチと行動を共にした経津主神=香取神が移住した千葉に3世紀中頃の神門古墳群が現れる事実、
>逆に纏向遺跡の外来搬入土器に突然関東土器が現れる事実とも符合すると思われます。
>
>以上、総合的に判断したら、卑弥呼(Bei mei hu)とは比咩后(Bi mie hou)、比売后〈Bi mai hou〉=ヒメ(踏鞴五十鈴)后しかいないという結論になります。
>大和の主神さんの娘ですから、魏志倭人伝に書かれた女王とはこの人しかいないでしょう。
お教え有難うございます。
論理的帰結からであると、P君さんが仰っている事は理解できます。
人物の比定も有り得ると考えます。
安房守とはアプローチが違うと申し上げた部分は、卑弥呼の発音に(Bei mei hu)と、ピンインの発音からお考えになっている所です。
現代の日本語として卑弥呼の発音(読み)を考えると、ヒミコ、ピミコ、と思われます。
漢字の現代日本語での発音は、呉音、漢音、唐音があり、中國古音がかなり残されているとされていますので、当時と大きな違いは無い気がしています。
とは言いましても、魏志倭人伝当時の中國での卑弥呼の発音につきましても、諸説があることは承知しております。
「呼」の発音が「コ」とされていることに、安房守は疑問を持っております。
安房守は当時の発音の参考に、小學堂の上古音と中古音、そして、万葉集、古事記、日本書紀の発音(岩波文庫)を使っています。
小學堂は臺灣大學中國文學系和中央研究院資訊科學研究所にあって、ネットで探せます。
「呼」の発音については、稲荷山古墳出土鉄剣のwikiによりますと「乎獲居臣」は読みを「ヲワケの臣」としています。
「呼」と「乎」は同音とされており、白川静氏の「字統」によりますと、元の文字は「乎」であるとあります。
「呼」の読みが「ア」として出現するのは、日本書紀では一回、万葉集では、二回です。
「呼」の読みを「ヲ」としているのは、全体で、31回あります。
「乎」を「ヲ」としているのは二千回以上ですから、元は「乎」であったと見ています。
安房守の想像ですが、史書上、元々は「卑弥乎」であったものが、筆写を重ねていくうちに「卑弥呼」に替わってしまったと見ています。
安房守は卑弥呼の発音はヒミヲ、ピミヲ、の可能性が高いと考えています。
「卑弥」の意味する所、ヒミ、ピミとの発音が意味している事(内容)は何であったのでしょうか?
狗奴國男王卑彌弓呼との文字列がありますことから、「卑弥」が女性を意味する内容を含んだ言葉と考えることは難しいと安房守は見ております。
三省堂詳説古語辞典に、「日」(発音上はヒ)には、日の神の意味があり、天照大神も表しているとあります。
「御」(発音上はミ)には神・天皇に属し、畏敬の念を示す言葉とあります。(御に続く言葉に対して抱く畏敬、と安房守は考えています。)
「呼」(発音上はヲ)ヲがワウだとすると、王であり、君主の称号とあります。
つまり、日の神である偉大なる王との意味ではないかと見ています。
男王・・弓呼とあることから、弓呼=男の王となり、弓は男性を意味している気がしています。
コジツケではありますが、なんとなく、有り得るような気がします。
また、お教え願います。
Re: 高天原にある卑弥呼の墓 - P君
2022/09/28 (Wed) 11:46:35
滑安房守さん
卑弥呼(Bei mei hu)とは比咩后(Bi mie hou)、比売后〈Bi mai hou〉
この発音はピンインですが、古代もこれに近いであろうという推定だけで卑弥呼をヒメ(踏鞴五十鈴)后と言ってるのではなく、
彼女の住んだ場所に大量の奴婢埋葬痕跡と径百余歩の楕円墳がある事、
また。ちょうど彼女の3世代後にトヨ津媛がいることは、
高齢で亡くなった卑弥呼の死後に男王が立ち、その後に13歳の台与が立った世代差を説明できますし、
また東大寺山古墳の中平銘鉄刀の和邇氏の祖がトヨ津媛にもなる事は、
卑弥呼がもらった五尺刀の一口が中平銘鉄刀である証明にもなると思われますし、
関東千葉に突然現れる前方後円墳は、卑弥呼の死後に立った男王が先代旧事本紀ではタケミカヅチにあたり、そのタケミカヅチと行動を共にした経津主神=香取神が移住した千葉に3世紀中頃の神門古墳群が現れる事実、
逆に纏向遺跡の外来搬入土器に突然関東土器が現れる事実とも符合すると思われます。
以上、総合的に判断したら、卑弥呼(Bei mei hu)とは比咩后(Bi mie hou)、比売后〈Bi mai hou〉=ヒメ(踏鞴五十鈴)后しかいないという結論になります。
大和の主神さんの娘ですから、魏志倭人伝に書かれた女王とはこの人しかいないでしょう。
Re: 高天原にある卑弥呼の墓 - 滑安房守
2022/09/27 (Tue) 07:05:33
P君さん
お教え有難う御座います。
>> 卑弥呼(Bei mei hu)の(Bei mei hu)とは、卑弥呼の発音を表わしているのではないかと見ております。
>> (Bei mei hu)と発音するとお考えになった、根拠をお教え願います。
>
>これは「ピンイン」です。
>現代中国語で何が分かるのだというご意見もあると思いますが、
>魏とは地域的に一致するし、当時の言語とさほど変わらないと想定もできるのなら、
>ピンインで解いてみて、もし何かが分かればそれでいいのではないかと思ってます。
>やらないで何も分からないというより、ピンインで解いてみて何かが分かる方が遥かによいと思われます。
発音となる根拠はピンインでしたか。
現代中国語での発音を当てた場合なのですね。
そうでしたか、判りました。
安房守とはアプローチが違うようですが、何もしないよりは良いとのお考えには賛成です。
また、お教え願います。
Re: 高天原にある卑弥呼の墓 - P君
2022/09/26 (Mon) 01:24:21
滑安房守さん
> 卑弥呼(Bei mei hu)の(Bei mei hu)とは、卑弥呼の発音を表わしているのではないかと見ております。
> (Bei mei hu)と発音するとお考えになった、根拠をお教え願います。
これは「ピンイン」です。
現代中国語で何が分かるのだというご意見もあると思いますが、
魏とは地域的に一致するし、当時の言語とさほど変わらないと想定もできるのなら、
ピンインで解いてみて、もし何かが分かればそれでいいのではないかと思ってます。
やらないで何も分からないというより、ピンインで解いてみて何かが分かる方が遥かによいと思われます。
Re: 高天原にある卑弥呼の墓 - 滑安房守
2022/09/25 (Sun) 09:24:56
p君さん
お教え願います。
>高天原最有力地・奈良県御所市高天の日本最古の神社・高天彦神社の境内に、
>径百余歩(約150m)の塚があり、魏志倭人伝の記述通り奴婢が埋葬されている。
>埋葬された奴婢とは土蜘蛛である。
>
>卑弥呼(Bei mei hu)とは比咩后(Bi mie hou)、比売后〈Bi mai hou〉、つまりヒメ后である。
卑弥呼(Bei mei hu)の(Bei mei hu)とは、卑弥呼の発音を表わしているのではないかと見ております。
(Bei mei hu)と発音するとお考えになった、根拠をお教え願います。
安房守も、卑弥呼を、当時の中國の人が、なんと発音していたのか、興味を持って調べております
宜しくお願いします。
Re: 高天原にある卑弥呼の墓 - p君
2022/09/12 (Mon) 20:33:57
数年前に淡路島で発見され、大きな話題になった松帆銅鐸ですが、
7個のうち2個が、島根県の加茂岩倉遺跡、荒神谷遺跡の2遺跡から出土した銅鐸と同じ鋳型(同笵=どうはん)で作られたことが分かったようです。
この松帆銅鐸だけではなく、畿内や四国、中部にまで加茂岩倉遺跡や荒神谷遺跡との兄弟銅鐸が波及しているようです。(画像)
※赤い線が松帆銅鐸です
.
銅鐸の移動は、人の移動という事ですから、出雲から畿内、四国や中部に人が移動していたという事でしょう。
梅原 猛さん風にいえば出雲の『神々の流竄(るざん)』ということでしょうか。
逆に東大阪の鬼虎川遺跡の鋳型で作られた銅鐸が出雲で見つかったりもしてますから、出雲と畿内は早くから一体化していたのでしょう。
日本各地に残る「出雲」という地名もそれを表してるのかもしれません。
そして松帆銅鐸のC14放射性炭素測定から、その神々の流竄・移動時期が分かったようです。
それはBC4世紀からBC2世紀になるようです。
出雲から畿内各地への大規模な人の移動拡散がBC4世紀からBC2世紀にあった。
この時期の出雲の神々の流竄・移動には何か大きな「きっかけ」「動機」があったと考えられます。
私は、これらの出雲からの神々の流竄は、BC3世紀の始皇帝による中華統一がその動機ではないかと考えてます。
BC3世紀、海の向こうに「秦」という超巨大帝国ができた。
想像を絶する数の兵力と圧倒的な先進兵器を持つ。
この情報は日本にも入ってきてたでしょう。
日本側は当然ながらおびえて緊張し、防衛体制を整えたでしょう。
それが、畿内の銅鐸地域を守るかのような、北部九州から瀬戸内の銅剣・銅矛という武具の出土につながるのではないでしょうか。(次レス画像)
この様相は、7世紀の白村江の敗戦後に、大陸勢力の侵攻を恐れ、北部九州から瀬戸内に迎撃のための城ができ、防人が配置された姿にそっくりです。
驚くべきことは、日本のBC3世紀に、北部九州から瀬戸内に、迎撃のための防人を配置できる「王」がいたということになります。
もはや古過ぎてその王の名前など分かりませんが、北部九州から瀬戸内、畿内、中部までを包括する大きな国の主、
とりあえず「大国主」と呼ぶのがふさわしいのかと思われます。
Re: 高天原にある卑弥呼の墓 - p君
2022/08/06 (Sat) 19:22:26
自分の父親を焼き殺した男の妃にならなければならなかった葛城円の娘・韓媛の心中はいかばかりだったろう。
ところで葛城円には男子の跡継ぎはいなかったのだろうか。
葛城氏系図ではどうやら韓媛しかいないようである。
普通に跡継ぎの男子はいたであろう。
ひょっとすればその人物が一言主かもしれない。
韓媛という名前に何か引っ掛かる。
韓で連想するのは、葛城出自を自称する蘇我、その蘇我稲目の祖父・蘇我韓子である。
蘇我韓子は雄略天皇9年までは生きていたようだ。つまり韓媛と同じ時代を生きていた。
韓媛・韓子(彦)
この二人はヒメヒコではなかったのか。
6世紀になり、なぜ蘇我が急激に台頭してきたのか、謎である。
もし蘇我の台頭に、葛城の主を焼き殺され、それをなじった一言主も流罪となった、
そのすさまじい怨念が背景にあるとしたら納得できる。
怨霊の存在を信じ、真剣に恐れていた時代、葛城の怨念を持つ蘇我に対して、
朝廷側は強い加害者意識、罪悪感、そこからくる過度の忖度、禅譲、はれ物に触るような態度、
つまり隙を見せた。
その隙が蘇我の台頭を許したのではないだろうか。
Re: 高天原にある卑弥呼の墓 - p君
2022/08/06 (Sat) 19:17:27
邪馬台国は葛城、今の奈良県御所市である。
4世紀前半、崇神により、卑弥呼やトヨを輩出した王家は絶やされた。
そして、5世紀後半。
「一言主大神」
雄略に対して「吾は悪事も一言、善事も一言、言い離つ神。葛城の一言主の大神なり」
かなり違和感があるのは、普通、日本語では「あの人の良い事も悪い事も知っている」などと、善が先にくる。
しかしこの一言主は雄略に対して悪事が先に来ている。
善事も…と後に続くのは、大王・雄略に対して悪事のみ言うのは直接過ぎるため、
本来言いたかった悪事を和らげる目的があったのではないだろうか。
では雄略の悪事とは何か、これは分かる。
眉輪王の変での葛城 円(かつらぎ の つぶら)焼殺事件である。
雄略がまだ大泊瀬皇子であった時に眉輪王の変が起きる。
そして葛城の主である葛城円大臣(葛城 襲津彦の孫)が雄略に焼殺される。
土地も娘も差し出すから命だけは助けてくれと懇願する葛城円を雄略は容赦なく焼き殺した。
これらは史実であり、近年、極楽寺ヒビキ遺跡として発見される。
普通、火事では火を消そうとするから、柱に水が掛かって全焼といえども根元は残ったりするものだが、
この極楽寺ヒビキ遺跡は土まで焼けている。
火を消そうとした痕跡が全くない。
燃えるがままに見ていたという恐ろしい遺跡だ。
ここで葛城円が焼き殺された。
雄略が葛城で出会った一言主大神はこの事件をもちろん知っている。
したがって「吾は悪事も一言、善事も一言、言い離つ神」とは、
意訳すれば「おまえのとんでもない悪事を一言で言ってやろうか」という恫喝であろう。
これに対してはさすがの雄略も怯んだであろう。
しかしながら一言主が土佐に流されたという続日本紀の記述は、一言主を祭神とする土佐一宮が存在することからも事実であろう。
これは「今回は流刑だけで済ましたが、これ以上言い続けるとどうなるか分っているな」という雄略側からの逆恫喝かもしれない。
この事件の直後から、葛城出自を自称する一つの豪族が台頭してくる。
彼らはやがて隆盛を極め、権勢をふるい、ついには日本の歴史で唯一、天皇を暗殺する。
その豪族とは蘇我である。
Re: 高天原にある卑弥呼の墓 - p君
2022/08/06 (Sat) 19:05:47
wiki 高天原
作為説
神話は作られたものであるから、そこに出てくる高天原について「どこにあったか?」などと考えること自体が無意味であるとする説。
山片蟠桃の説が代表的なもので、『古事記』における神代のことは後世の作為であるとする。
戦後主流となっている津田左右吉の史観はこの考え方に基づく。
現在でも多くの学者は、高天原神話は支配階級のことを「天上界に由来するが故に尊い」とする信仰を語ったものであるという説に与しており、
思想的には異なるものの先の天上説と実質の意味合い的には近い。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
ほとんどの学者が今でもこのように思ってるから、高天原最有力地である奈良県御所市高天を見にも行かない。
しょせん神話だろ、そんなものありはしないと考えている。
ところがこの地こそ、日本で唯一、大量の奴婢が埋葬された伝承を持つ。
それが魏志倭人伝の卑弥呼墓の様相と一致する。
学者さんたちはギリシャ神話のトロイアを掘り出して見せたH・シュリーマンの話をみんな子供の時に聞いたり読んだりして知ってる。
にもかかわらず大人になれば、その神話の世界を否定する。
滑稽だ。
Re: 高天原にある卑弥呼の墓 - p君
2022/08/03 (Wed) 18:19:10
織田信長の時代に宣教師のフロイスが地球儀をもってきた。
そしておおよそ江戸時代になって、この大地は丸い球であるという事実が日本人に定着。
それ以前は仏教にもみられる平面世界観であった。
この大地は円盤状の世界で、その中心に高山がそびえ、月や太陽はその周りをまわっているという考えである。
その高山を模したものがお寺の塔(ストゥーパ)であり、
その高山の頂上、神が住む絶対歓喜の世界である有頂天を表したものが各家庭にある仏壇(須弥壇)である。
記紀に登場する「高天原」も、この大地は丸い球であるという事実を知る以前の平面世界観での産物である。
だから蘇我馬子が推古天皇に高天原のある葛城の領有を願い出たた時、
私は今まで叔父の言う事は何でも聞いてきましたが、それだけはできませんと断られる。
この大地の、この世界の中心、日本の最も神聖な場所を蘇我に明け渡すわけにはいかなかったのである。
江戸時代に登場する本居宣長に代表される高天原=天上説は、
この大地は丸い球であると知って以降の考え方であり、
それ以前の平面世界観での高天原を説明できるものではない。
このように平面世界観では、高天原は「どこか」に見立てられてきたのであり、
それは古来から高天山と言われた金剛山の麓、奈良県御所市高天しかない。
そしてここに魏志倭人伝に書かれた卑弥呼の墓もある。